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宇野千代きもの、小紋、草木染、藍染等、埼玉県熊谷市の着物(きもの)染色工房

千代先生の誕生日

誕生会1

宇野先生が生まれたのは明治30年11月28日でした。晩年、11月28日には親しい人が集って、誕生日を祝う会が先生の自宅で開かれていました。
写真は平成6年97歳の誕生日です。翌年冬には先生の体調が思わしくなく、これが最後の誕生会だったように思います。
誕生会2

この年はくじ引きがあり、先生の色紙が一等賞でした。誕生会のような時には先生は得意の歌を披露してくれました。「桜井の別れ」などがお得意の曲でした。先生は声量は多くありませんが空き透ったソプラノでとても上手でした。

アランの肖像画

Aran

恋愛に限らず何事にもまっしぐらと進むのが宇野千代流で、尊敬する人についてもそれが言えます。
宇野先生は昭和26年2月から3ヶ月ヨーロッパを旅行しました。そして4月2日にパリで彫刻家の高田博厚に案内され晩年の哲学者アランの家を訪れました。そこでアランから本を贈呈されました。帰国してからはアランの本を読むことに熱中し、私の先代にもアランの「幸福論」を読むように勧めていました。写真は宇野先生からいただいたもので、アランの肖像画の複製です。アランの「幸福論」が晩年の「幸福は幸福を呼ぶ」と言う生き方の原点になっているのではないでしょうか。

那須物語Ⅱ

宇野先生は那須の土地を購入することを決めるとと、しばらく鳴りを静めていた虫が動き出しました。
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契約を済ませ、黒磯の建築屋を見つけこう言ったのです。「一番早くできる家を建ててください。」写真の6畳と4畳半2間のプレハブの家ができるのに1週間ほどかかりましたが、先生は近くの旅館に泊まり、プレハブの家ができる日を待っていたのでした。土地を見に行ったのが6月で家が出来上がったのが7月でした。
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プレハブの家の周りには家は一軒もなく、月のない夜になると本当に真っ暗となり鼻をつままれても分からないくらの闇夜でした。明かりの周りには蛾が群がり、トイレが別棟で外だったためトイレの天井は蛾でびっしりと真っ黒になりなりました。 家の横には沢が流れていて、夕方になるとどこからともなく鐘を付けた馬がカランカランと水を飲みに来ていました。ちょっと泉鏡花のような不思議な世界でした。

那須物語Ⅰ

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                               昭和41年6月

宇野千代さんの那須物語は昭和41年に始まりました。宇野先生は友人に誘われ那須を訪れました。その頃は別荘ブームの走りでいくつかの業者が分譲をはじめたころで、那須の自然を気に入った先生は早速小さな土地を予約したのでした。自分の気に入ったものを人に勧めるのも千代流で、早速先代も6月初旬那須に誘われ、先生の隣を予約することになりました。当時、新幹線も高速もない頃で、上野から特急で2時間近くで黒磯に着き、駅からタクシーで4~50分かかりました。車では国道4号線をひたすら走り、夜でも5~6時間はかかりました。那須は東京からはとても遠い所でした。その那須に宇野先生は足繁く通うようになったのでした。

 

淡墨桜

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                              昭和50年4月

現在では淡墨桜は日本有数の銘桜として有名ですが、昭和も40年代頃までにはあまり知られていませんでした。宇野先生は昭和42年4月に友人の里見とんさんの那須の別荘でやはり友人の小林秀雄さんと会いました。小林秀雄さんは大の桜好きで、淡墨桜の話をされたのでした。その話から宇野先生の虫が動き出しました。心の中の虫が動きだすとわき目もふらず駆け出すのがいつもの先生でした。当時73歳だった先生はすぐに根尾へ飛んで行きました。この辺の経緯は「生きていく私」にも載っています。

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                                 昭和50年4月

根尾に行くタクシーの中で淡墨桜のことを聞いても全く知らず、あちら、こちらを訪ねてやっと淡墨桜にたどり着いたのでした。そして、銘桜の無惨な姿にとても驚き残念に思ったのでした。それからはまさに宇野千代流でした。役場に行きいろいろ調べ、以前にもこのような薄墨桜を再生した前田医師をことを知り、銘桜復活のため様々なことをはじめたのでした。
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小説「淡墨桜」に「私のデザインした小紋の染工場である熊谷の横田伊三郎が、まず筆頭で五万円、次は骨董屋の瀬津が三万円、美術批評家の青山二郎が十万円と、・・・寄付金集め容易でした。」とあるように募金もその一つで実際に集め始めました。後になって同業の富田染工の富田さんが「小説に載るのが分かっていたらもっと出しておけば良かった。」と言うような笑い話もありました。実際にはその募金を使うことなく、直訴した手紙が岐阜県知事の目に触れ、県が淡墨桜再生に大きな力を果たしてくれました。

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再生の手術が成功し、淡墨桜は見事な花をつけるようになり、周囲は大きな公園として整備されました。ほとんど知る人もなかった淡墨桜が有名になり、花の時期には大勢の観光客が集まるようになりました。鉄道のなかった根尾には樽見鉄道が延長され、先生が投宿して住吉屋さんは釣り宿から大きなホテルになり、淡墨桜は一大観光名所に変貌したのでした。 写真でも小さな囲いの周りには昭和50年には民家が接していたものが、次の写真では住宅は無くなり、広く整備され、しだいに大きな公園になっていく過程が分かります。

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