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宇野千代きもの、小紋、草木染、藍染等、埼玉県熊谷市の着物(きもの)染色工房

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時代付けの茶碗

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            青山二郎時代付け茶碗
青山二郎先生はこれといった職業を持たなかった人でだったので、自由な時間がたっぷりありました。宇野千代先生の「青山二郎の話」や別冊太陽「青山二郎の眼」(1994年10月刊)にのっていますが、青山先生はたっぷりある時間を使ってよく新しい陶器の「時代付け」をしていました。陶芸をはじめて少しすると多少は先生の眼にかなったものが出来るようになりました。先生のマンション「ヴィラ・ヴィアンカ」に伺って批評していただき、帰るときに「これを置いてゆけ。」と、はじめの頃は「ぐい飲み」を、もうしばらくすると茶碗にも声がかかり置いていくようになりました。数ヶ月して先生のマンションにいくとぐい飲みが数個きれいな陳列棚に飾ってありました。古そうなぐい飲みがあるなと思っていると、先生が少しニヤニヤしながら「おまえの作ったぐい飲みだよ。」と言われたのでした。よく見ると確かに見覚えのある形でしたが、かんにゅうに茶渋が入り雰囲気のあるぐい飲みになっていました。それから家に帰って教わったように時代付けをしてみましたがなかなかうまくいきません。時代付けはとても時間がかかり難しい作業だったのでした。
写真の茶碗は先生の時代付けをした私の作品で「最近茶碗の高台が良くないぞ、これをよく見ろ。」と先生が奥の部屋から出してきたものでした。「参考にするから、持って帰ります。」と無理矢理持ち帰ろうとすると、先生はなかなかもいいとは言いませんでした。奥さんの和子さんが取りなしてようやく持ち帰ったものです。それでも先生はとても残念でならないと言うそぶりでした。それもそのはずで、この茶碗の時代付けにはどれほどの時間がかかったかを考えると納得出来ます。今となっては先生の形見のような茶碗で、和子さんもいない今となっては懐かしい思い出です。
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晩秋の熊谷桜堤

熊谷桜堤 

晩秋の熊谷桜堤です。全国桜名所百選に選定されている桜堤の清掃をおこないました。私たち桜ファンクラブは平成3年からこうした活動を続けています。今年は5月と8月にも計画していましたがあいにく雨のため、今年はじめての清掃となりました。


ごみひろい

400本ある桜堤はすっかり冬支度。紅葉した桜の葉が枝先に残っています。
活動をはじめた頃の桜堤はゴミが多くすぐにゴミ袋がいっぱいになりましたが、最近はゴミが少なくとてもきれいになっています。

傷ついた桜樹

堤には樹齢が60年近い桜もあって痛んだ桜も出ています。特に道路際の桜が痛みが激しいようです。木に勢いが無くなると菌糸に侵されて茸が繁殖したりしています。
青空

当日は小春日和で紅葉した葉をつけた枝の間から雲一つない深い空の青が美しく、イスに腰掛けていても暑いくらいの好天で、本当に気持ちの良い1日でした。お花見の季節にはこの一帯はたくさんの市民で賑わっていますが、花のないときにあまり人がいなく桜もさびしいことでしょう。花のない時期にも桜を楽しむ人が増えると良いのですが。
この堤は熊谷市の公園になっていて桜の管理も良くされています。痛んだ桜の代わりに新しい桜が植樹され、だいぶ大きくなっています。


付下げ「爛漫」

爛漫


宇野千代先生デザインのきものは一時期結婚していた東郷青児さんの影響を感じる色使いが多くあります。この宇野千代きものもその一つで淡い鳩羽色の地色の上に白、胡粉、グレー、銀泥という少ない色で春爛漫と咲き誇る桜樹をあらわしています。裾は濃く暈かし染めにして、白がよりはっきりと表現されています。生地には大きな波の模様を織り込んだ緞子が用いられ、いっそう豪華なきものとなっています。

古い注文書

注文書

工房に古い注文書が残っていました。宇野千代先生直筆の注文書で便せんに几帳面な鉛筆書きで書いてあります。内容から推測すると、おそらく昭和30年代のもので、晩年の先生は4Bとか6Bとかの柔らかい鉛筆で執筆されていましたが、このころはHBとかBというような少し硬めの鉛筆を使っていたようです。宇野千代きもの研究所と印刷された便せんに丁寧に特徴のある筆跡で書かれ、色見本の小布が貼ってあります。宇野先生の几帳面な性格が出ているように思います。私も「あじさい」や「松葉」は今でも染めることがありますが、「立木」はどんな模様であったか調べないと分かりません。当時にはこのような注文書が毎週のように届いていたのでしょうが、現在残っているのはこの一冊だけで今となっては残念です。

工房内の風景

工房内部

戦後すぐに建てられた古く小さな染色工房です。頭上には型板がたくさん吊してあり、奥の壁には丸刷毛が沢山かけてあります。

工房壁面

丸捌けは鹿の毛で出来ていて、用途により大中小と有り色ごとに使い分けるので沢山必要になります。きもの自体の需要が少なくなったため、当然丸刷毛の需要も少なくなり、丸刷毛のような染色道具を造る職人もとても少なくなっています。

型板

型板は小紋染めに欠かせないもので、この型板は樅の木の一枚板で幅は46センチ、長さが7.1メートルあります。大きな板なのでもとの樅の木はさぞ大木であったことと思われます。この板は筑波山でとれた樅の木から切りだしたと先代が言っていました。型板はかなりの重量がありますが、持ち上げて頭上に吊しておきます。熊谷は終戦直前に空襲され、元の大きな工房は焼失してしまい、疎開してあった物をのぞいてほとんどの物が失われてしました。戦後シベリア抑留から戻った先代は小さな工房を再建し少しずつ型板を買って染色の仕事を再開したのでした。当時でも型板は大変な貴重品で遠く数十キロ離れた工房から型板を譲ってもらい、自らリヤカーで運んだり、売りに来た業者にお金をだまし取られたりと、型板を集めるのには大変な苦労があったようです。

熊谷桜について

クマガイザクラ
                2007年3月8日(工房にて)

歴史ある桜
桜の種類はいったいどれくらいあるのでしょうか。現在、結城市にある(財)日本花の会結城農場には300種の桜が保存されています。桜は江戸時代中期から飛躍的に種類が増え、江戸時代末期にはすでに230種以上の桜の名前が記録されていました。ですから、現在ではかなりの種類の桜が存在しているはずです。
桜の繁殖が盛んになる前、江戸時代初期にはまだ桜の種類はとても少なかったようです。那波道円が正保4年(1647)に著した「桜譜」には15種の桜が記され、水野元勝が寛文4年(1664)に著した「花壇綱目」には36種と少し増えています。そのどちらにも熊谷桜の名前が載っています。さらに遡って、慶長十年(1605年)醍醐寺第80代座主の義演准后(ぎえんじゅごう)は二月四日の日記の中で「彼岸八重桜くまがへと云う也 悉開了」と記しています。ですから熊谷桜という名の桜が早咲きの八重桜として古くから存在していたといえます。
貝原益軒が 宝永5年(1708)に著した「大和本草」では「熊谷桜 高さ尺に過ぎずして花さく、長して四五尺に過ぎず、彼岸桜に先立ちて八重の好花ひらく、枝のかたちは桜に似て彼岸桜には似ず、桜のさきがけ也、別種なり、花色白くして少紅を帯びたり」としています。宝暦8年(1758)発刊の松岡怡顔斎「桜品」には簡単な絵とともに「熊谷と名付ける事熊谷直実と平山武者所と一ノ谷の魁せし儀をとりて名付也」と名付けられた由来が記されています。
幻の桜
多くの桜が幕末期の混乱で失われてしましました。熊谷桜もその一つで、幻の桜となってしまったのです。三好学は昭和14年の桜の会編「桜」第二十号で「熊谷桜に就て」という題で「文献に徴すれば、熊谷桜は早咲きの八重彼岸桜にして、花弁二出、花心より葉化雌蕋出たるものなるを知るべし。先年来地方より送来れる桜の標本の中にも右の特徴の該当するものありたれば、熊谷桜は現存するや疑いなし。」と記しています。

   

青山二郎先生との出会い

青山二郎
               青山二郎先生(昭和42年那須宇野邸にて)

宇野先生の家に伺うと先生はいつも古くすすけた大振りな八角形の湯飲みでお茶を出してくださっていました。それまで先代伊三郎は京都の問屋の仕事もしていて毎月のように京都に行っていて、時々その頃新進の陶芸家であった清水卯一氏の家に行ったりもしていました。だから陶器に全く興味が無いわけではなかったのですが、骨董というような古いものには全く知識がありませんでした。
ある時先生は先代に「横田さんはきもののことが分かっているつもりでしょうが、陶器のことも分からないできものが分かるはずはないのよ。」といわれたのでした。「では、私に陶器のことを教えてください。」というと先生は、「私には教えられないから、青山二郎を紹介するわ。」といって、すぐに電話をかけて青山二郎先生の原宿のマンションに連れていってくれたということでした。それから先代は青山先生のお宅や美術館に足繁く通いました。数年して青山先生に「横田、焼き物を作ってみないか?」とすすめられ。自分で陶芸をはじめることにしたのでした。当時はちょうど日本陶芸クラブなどが始まった頃で、アマチュア用の陶芸用具が発売されはじめた頃で、一通りの道具をそろえて家族中で陶器を作りはじめました。焼き上がると青山先生のマンションにいき批評していただくようになりました。
私も先代とともに青山先生のマンションにいくようになり、先生のコレクションをだして手にとって教えてくださいました。当時、青山先生は東京オリンピックの高速道路用地買収で多額の補償金が入った後で、2軒分をつなげた広いマンションに買い集めた多くの名品に囲まれて暮らしていたのでした。今思うと、若くして考えられないような名品を手にとって見ることが出来たのはこの上ない幸運でした。宇野先生の言うようにきものの染色にも大きな力になっているように思います。

宇野千代先生との出会い

宇野千代先生と横田伊三郎

               宇野千代先生と横田伊三郎(昭和63年工房にて)
早いもので今年の6月で宇野先生の13回忌となりました。先生が長年住み慣れた青山の梅窓院には分骨したお墓があるので法要は梅窓院で行われました。
宇野先生と私の工房との出会いは昭和33年にさかのぼります。そのころ工房3代目の横田伊三郎は東京の染織家長谷田桐翠氏と親しくしておりました。長谷田氏が宇野先生のスタイル社の注文を請けていたことから、長谷田氏の紹介で宇野先生のきものの染色を始めることとなったのです。宇野先生のデザインは色使いに特徴があって、先生の気に入る配色にすることにしばらく苦労したようでした。
ようやく先生の色使いにもなれはじめた頃、昭和34年4月にスタイル社は脱税の摘発や放漫経営もあって倒産してしまいました。工房もその頃は手形決済でしたので、仕事を始めてから1円の現金も入らぬまま、多額の未収金が残ってしまった。
その当時スタイル社の新入社員で、宇野先生のきものの会社を永く背負っていくことになる高橋貞夫さんが昔話しにその頃のことを「どこへ行っても怒られて、ひどい扱いだったけれど、横田さんの所ではお昼に鰻をだしてくれた。とっても嬉しかった。」とよく話していました。それからは、先生のきものの会社の社員の中では「熊谷は鰻の美味しい所」というのが評判でした。
倒産の後、宇野先生は文筆で得たお金で白生地を1反買って新しいデザインの小紋を染めました。斬新な小紋はすぐに売れ、すぐまた生地を仕入れ、1反が2反、2反が4反としだいに扱う数が増えて工房にも多くの注文がくるようになりました。数年で先生の小紋を扱うお店も銀座のお店や一流のデパートとふえて、きものデザイナーとして成功したのでした。

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