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宇野千代きもの、小紋、草木染、藍染等、埼玉県熊谷市の着物(きもの)染色工房

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川崎哲也先生

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                    クマガイサクラと川崎先生
私たちが「桜のまち熊谷」のまちづくりのお手伝いをしようと、市民有志で桜ファンクラブと言う会を作り、本格的に熊谷桜を探しはじめたのは平成2年でした。三好学博士が「現存するや疑いなし」と言った熊谷桜ですが、私たちが熊谷桜に出会うにはかなりの時間が必要でした。そして、それには理由がありました。平成4年4月に多摩森林科学園の桜保存林を見学に行き紹介していただいたのが桜の研究家、川崎哲也先生でした。川崎先生は早春から桜を求めて全国を走り回っていて、ようやくお会いできたのが6月も末のことでした。ちょうど先生は平成5年4月に刊行される「日本の桜」の解説を担当されていて、熊谷桜のことを次のように解説をしていました。
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「クマガイとクマガイサクラ」
「大井次三郎は1961年に発行ざれた佐野藤右衛門著『桜』のなかでクマガイザクラについての解説をしている。この本のクマガイザクラの図は、キンキマメザクラの八重咲きのもので、その特徴がよくでている。大井は『怡顔斎桜品』に記載されている熊谷桜はこれであるとした。その後大井は1973年発行の『日本桜集』において,佐野の『桜』の図は真のクマガイザクラではなかったとし,前記の学名に相当するものとして三島市の国立遺伝学研究所に栽培されているコヒガンの八重咲きのものを図示し,和名もクマガイと変更した。
 一方北村四郎は『滋賀県植物誌』で,キンキマノザクラの「八重のものをクマガイザクラという」と記している。佐野の『桜』の図はこれと同じものである。つまり,同じクマガイザクラに,キンキマノザクラの八重咲き品と,コヒガンの八重咲き品とがあることになり、混乱を生じている。
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   クマガイザクラ       怡顔斎桜品         熊谷桜
私は1950年に牧野富太郎からクマガイザクラについて教えを受けたことがあった。当時,牧野邸に植えられていたのは,キンキマノザクラの八重咲き品で,これをクマガエザクラ,またはヤエザキヤマヒガン(ヤマヒガンはキンキマメザクラのこと)というと教えられた。しかし牧野は一方でその著書のなかでは,クマガエザクラはコヒガン系のものではないかと思う,と述ベている。1956年当時,サクラ研究家船津金松邸に植えられていたクマガエザクラは,牧野邸のものとまったく同じもので,キンキマメザクラの八重咲き品であった。佐野の『桜』のなかの図は,おそらく佐野邸のものをもとに描かれたものであろう。キンキマノザクラ系のクマガイザクラは,かなり古くから栽培されていたようである。 この本では,さらに新しい名称をつくりだして混乱を拡大するのを避けるため,あまり連当ではないが、コヒガン系のほうを大井に従ってクマガイとし,キンキマメザクラ系のほうを北村に従ってクマガイザクラとしておく。」(抜粋 日本の桜 山と渓谷社 )
 そしてどちらの桜も(財)日本花の会結城農場にあると教えてくれ、田中秀明農場長を紹介してくれたのでした。川崎先生のお陰でようやく熊谷桜にたどり着くことができたのです。
 大変お世話になった川崎先生が平成14年に亡くなられたことは私たちにとって残念なことでした。謹んで先生のご冥福をお祈り申し上げます。

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たんぽぽの茶碗

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青山二郎先生が晩年まで愛した茶碗がもう一つあります。青山先生の評価は「ととや」に勝るとも劣りませんせした。その茶碗が「たんぽぽ」です。小ぶりの絵唐津で、青山先生が山陰で手に入れたものです。写真から分かるようにたんぽぽの綿毛のような絵が描いてあり、「たんぽぽ」の名は青山先生の命名。箱書きには「銘つみかこ」となっています。小ぶりの唐津ですが、見た目より重い茶碗です。底が厚く、盛り上がりがあって今にも爆発寸前といった茶碗です。普通に言えば失敗作とでもいえるもので、先生は「おじいさんと孫が一緒に作ったに違いない」と言っていました。とても面白みのある茶碗で、高台も見事です。先生はよく「日本一の薄茶の茶碗だ。」といっていました。名品を見尽くした青山先生だけが言える言葉です。通人好みの茶碗でしょうか。

氷山の一角

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工房に残る宇野千代先生の色紙です。
先生愛好の言葉、「氷山の一角」
「いま あなたの上に現れている能力は 氷山の一角。 真の能力は 水中深く深く 隠されている。」
才能あふれる宇野先生でしたが「おはん」を書き終えたのち、文章が書けなくなった時期があり、とても悩んでいました。その時知人に勧められたのが天風会でした。この言葉も天風会の主宰者中村天風さんの言葉のようです。いいと思うことはすぐに人に勧めるのが宇野千代流ですから、天風会で聞いてきたことはよく先代にも話していたようです。この辺のことは「天風先生座談」(二見書房)に詳しくのっています。宇野先生はもちろん天性の才能の持ち主でしたが、人一倍努力の人でもありました。先生の人生は見えない大きな能力の発掘の歴史でもありました。だいぶしみができた古い色紙ですが、これを見ると宇野先生とともに日々の精進の大切さを思い出させてくれます。

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