膨らんだ熊谷桜の蕾
啓蟄も過ぎ日差しが春の近づきを感じさせてくれます。暖かさに熊谷桜の蕾も一段と膨らんで開花が間近となりました。写真は昨年高城神社に植樹した熊谷桜です。高城神社は延喜式にものっていて、江戸時代熊谷桜の記録の残る石上寺の別当でもあった歴史のある神社です。
私たち桜ファンクラブでは昨年12月21日に高城神社に接ぎ木で殖やした熊谷桜2本を植樹しました。
植えた熊谷桜は樹齢5年でまだ小さい桜ですが、数年後には大きくなって高城神社を訪れる人の眼を楽しませてくれることでしょう。
昨年9月に芽接ぎした熊谷桜の芽が膨らんできました。ここまでくれば接ぎ木はほぼ成功です。接いだ芽の2センチ位上で台木を切り、保護材を塗っておきます。後はまた、しばらく様子を見ます。膨らんだ芽が花芽であれば花の部分を摘んで葉が出るのを待つことになります。それにしても本格的な春が待ち遠しくなります。
今年の接ぎ木の講習会は茨城県の結城にある(財)日本花の会結城農場でお花見をかねた講習となります。
川崎哲也先生
クマガイサクラと川崎先生
私たちが「桜のまち熊谷」のまちづくりのお手伝いをしようと、市民有志で桜ファンクラブと言う会を作り、本格的に熊谷桜を探しはじめたのは平成2年でした。三好学博士が「現存するや疑いなし」と言った熊谷桜ですが、私たちが熊谷桜に出会うにはかなりの時間が必要でした。そして、それには理由がありました。平成4年4月に多摩森林科学園の桜保存林を見学に行き紹介していただいたのが桜の研究家、川崎哲也先生でした。川崎先生は早春から桜を求めて全国を走り回っていて、ようやくお会いできたのが6月も末のことでした。ちょうど先生は平成5年4月に刊行される「日本の桜」の解説を担当されていて、熊谷桜のことを次のように解説をしていました。
「クマガイとクマガイサクラ」
「大井次三郎は1961年に発行ざれた佐野藤右衛門著『桜』のなかでクマガイザクラについての解説をしている。この本のクマガイザクラの図は、キンキマメザクラの八重咲きのもので、その特徴がよくでている。大井は『怡顔斎桜品』に記載されている熊谷桜はこれであるとした。その後大井は1973年発行の『日本桜集』において,佐野の『桜』の図は真のクマガイザクラではなかったとし,前記の学名に相当するものとして三島市の国立遺伝学研究所に栽培されているコヒガンの八重咲きのものを図示し,和名もクマガイと変更した。
一方北村四郎は『滋賀県植物誌』で,キンキマノザクラの「八重のものをクマガイザクラという」と記している。佐野の『桜』の図はこれと同じものである。つまり,同じクマガイザクラに,キンキマノザクラの八重咲き品と,コヒガンの八重咲き品とがあることになり、混乱を生じている。
クマガイザクラ 怡顔斎桜品 熊谷桜
私は1950年に牧野富太郎からクマガイザクラについて教えを受けたことがあった。当時,牧野邸に植えられていたのは,キンキマノザクラの八重咲き品で,これをクマガエザクラ,またはヤエザキヤマヒガン(ヤマヒガンはキンキマメザクラのこと)というと教えられた。しかし牧野は一方でその著書のなかでは,クマガエザクラはコヒガン系のものではないかと思う,と述ベている。1956年当時,サクラ研究家船津金松邸に植えられていたクマガエザクラは,牧野邸のものとまったく同じもので,キンキマメザクラの八重咲き品であった。佐野の『桜』のなかの図は,おそらく佐野邸のものをもとに描かれたものであろう。キンキマノザクラ系のクマガイザクラは,かなり古くから栽培されていたようである。 この本では,さらに新しい名称をつくりだして混乱を拡大するのを避けるため,あまり連当ではないが、コヒガン系のほうを大井に従ってクマガイとし,キンキマメザクラ系のほうを北村に従ってクマガイザクラとしておく。」(抜粋 日本の桜 山と渓谷社 )
そしてどちらの桜も(財)日本花の会結城農場にあると教えてくれ、田中秀明農場長を紹介してくれたのでした。川崎先生のお陰でようやく熊谷桜にたどり着くことができたのです。
大変お世話になった川崎先生が平成14年に亡くなられたことは私たちにとって残念なことでした。謹んで先生のご冥福をお祈り申し上げます。
芽接ぎした熊谷桜

接ぎ木した熊谷桜の芽です。エドヒガンザクラの台木の幹に切り込みを入れ、クマガイザクラの芽の前後2センチほどを薄く切りそいでテープでしっかりと止めてあります。寒い冬を越し、春の訪れを待っています。心持ち芽が大きくなっているような気がします。
桜を殖やすやり方にはいくつかの方法があります。種で殖やす、挿し木で殖やす、接ぎ木で殖やす方法の大きく3種類の方法があります。熊谷桜を殖やすには接ぎ木か挿し木で殖やすます。熊谷桜は八重桜なので種ができません、ですから種では殖やすません。また、種から育てた桜は一般的には雑種になるので種類が変わってしまいます。

指導する田中結城農場長
私たちが幻となった熊谷桜の接ぎ木講習会をはじめたのは平成12年からでした。今年も3月と9月に講習会を開きました。今年9月の講習会には(財)日本花の会結城農場の田中農場長にご指導いただきました。

指導する田中結城農場長
9月の接ぎ木は「芽接ぎ」という接ぎ木の仕方で、細かい作業となり少し難しいのですが講習に参加した皆さんは熱心に接ぎ木に挑戦していました。来春接いだ芽が膨らんでくれば接ぎ木が成功したことになります。皆さん春が待ちどおしい様です。来年の接ぎ木講習会は熊谷桜の故郷、結城の農場にバスで行き、300種類の桜を見学しながら、指導していただく予定にしています。その時には多くの皆さんに参加していただきたいと思っています。
晩秋の熊谷桜堤
晩秋の熊谷桜堤です。全国桜名所百選に選定されている桜堤の清掃をおこないました。私たち桜ファンクラブは平成3年からこうした活動を続けています。今年は5月と8月にも計画していましたがあいにく雨のため、今年はじめての清掃となりました。
400本ある桜堤はすっかり冬支度。紅葉した桜の葉が枝先に残っています。
活動をはじめた頃の桜堤はゴミが多くすぐにゴミ袋がいっぱいになりましたが、最近はゴミが少なくとてもきれいになっています。
堤には樹齢が60年近い桜もあって痛んだ桜も出ています。特に道路際の桜が痛みが激しいようです。木に勢いが無くなると菌糸に侵されて茸が繁殖したりしています。
当日は小春日和で紅葉した葉をつけた枝の間から雲一つない深い空の青が美しく、イスに腰掛けていても暑いくらいの好天で、本当に気持ちの良い1日でした。お花見の季節にはこの一帯はたくさんの市民で賑わっていますが、花のないときにあまり人がいなく桜もさびしいことでしょう。花のない時期にも桜を楽しむ人が増えると良いのですが。
この堤は熊谷市の公園になっていて桜の管理も良くされています。痛んだ桜の代わりに新しい桜が植樹され、だいぶ大きくなっています。
熊谷桜について

2007年3月8日(工房にて)
歴史ある桜
桜の種類はいったいどれくらいあるのでしょうか。現在、結城市にある(財)日本花の会結城農場には300種の桜が保存されています。桜は江戸時代中期から飛躍的に種類が増え、江戸時代末期にはすでに230種以上の桜の名前が記録されていました。ですから、現在ではかなりの種類の桜が存在しているはずです。
桜の繁殖が盛んになる前、江戸時代初期にはまだ桜の種類はとても少なかったようです。那波道円が正保4年(1647)に著した「桜譜」には15種の桜が記され、水野元勝が寛文4年(1664)に著した「花壇綱目」には36種と少し増えています。そのどちらにも熊谷桜の名前が載っています。さらに遡って、慶長十年(1605年)醍醐寺第80代座主の義演准后(ぎえんじゅごう)は二月四日の日記の中で「彼岸八重桜くまがへと云う也 悉開了」と記しています。ですから熊谷桜という名の桜が早咲きの八重桜として古くから存在していたといえます。
貝原益軒が 宝永5年(1708)に著した「大和本草」では「熊谷桜 高さ尺に過ぎずして花さく、長して四五尺に過ぎず、彼岸桜に先立ちて八重の好花ひらく、枝のかたちは桜に似て彼岸桜には似ず、桜のさきがけ也、別種なり、花色白くして少紅を帯びたり」としています。宝暦8年(1758)発刊の松岡怡顔斎「桜品」には簡単な絵とともに「熊谷と名付ける事熊谷直実と平山武者所と一ノ谷の魁せし儀をとりて名付也」と名付けられた由来が記されています。
幻の桜
多くの桜が幕末期の混乱で失われてしましました。熊谷桜もその一つで、幻の桜となってしまったのです。三好学は昭和14年の桜の会編「桜」第二十号で「熊谷桜に就て」という題で「文献に徴すれば、熊谷桜は早咲きの八重彼岸桜にして、花弁二出、花心より葉化雌蕋出たるものなるを知るべし。先年来地方より送来れる桜の標本の中にも右の特徴の該当するものありたれば、熊谷桜は現存するや疑いなし。」と記しています。







