青山二郎の眼
別冊太陽「青山二郎の眼「が出版されたのは1994年でした。青山先生が亡くなったのは79年ですから亡くなって15年してからの出版でした。天才的な目利きであると知っている人は以外に少なく、知っていても青山先生の文章も生き方も難解で理解するのが難しいため時間がかかったと言うことなのでしょうか。宇野先生の「青山二郎の話」や白州正子さんの「今なぜ青山二郎なのか」が出版されて、青山先生のことを知りたいと思う人が増えたことがこの本の誕生につながったといえます。
この本の構成は青山先生を研究している青柳恵介さんですが、陰の構成は青山先生と長く暮らしていた奥さんの和子さんといえます。白州正子さんが青山二郎の最高傑作と言った和子さんなしにこの本は出来なかったといえます。写真の配置にしても青山二郎直伝の和子流があり、ビラビアンカで青山先生にの指示に従って奥の部屋から骨董を運び、丁寧に箱から出していた和子さんを思い出します。
この本の誕生がその後の「青山二郎の眼」展につながっていきます。
桜・桜・桜
早咲きの熊谷桜はもう葉桜ですが、暖かい陽気につられていろいろな桜が咲き出しています。
先ず、この桜はミレニアム植樹と言って西暦2000年にできた埼玉県縁の桜(清雲寺枝垂れ桜、蒲桜、など)の種を2001年に蒔いて発芽した桜です。友人たちで育て、埼玉国体に合わせ2004年に熊谷スポーツ文化公園に約50本植樹した仲間です。写真の親は北本市の蒲桜です。蒲桜は彼岸桜と山桜の雑種と言うことで、花は皆小さいものが多くそれぞれ個性的です。
少し遅れて咲き出したのは常光院の小久保清子さんからいただいた枝を挿し木にした桜です。染井吉野の雑種と言うことで花びらは少し大きめで、白く一重です。大島桜の特徴が強く出ているのでしょうか。
さらに数日して咲き出しました。これからの桜は志木市の深谷良男さんが育てていた桜です。
牛車で通った貴族が今見た桜は一重か八重かで言い争いになり引き返して確かめた所から、または後水尾天皇があまりの美しさに牛車を引き返したとも言われたところから、その名がついたと言われる「御車返し(みくるまがえし)」。花により花弁の数が5枚の花と6,7枚の花とがあるので、八重一重とも呼ばれています。大変あでやかな桜です。
志木市の長勝院にある山桜で旗弁が特徴の「長勝院旗桜(ちょうしょういんはたざくら)」。花だけでなく葉も綺麗なのが山桜の特徴です。写真では見づらいのですが、一番下の花に旗弁があります。山桜らしい清々しい桜です。
黄色の色が特徴の桜で最近は時々見かけるようになった「鬱金(うこん)」。満開です。満開を過ぎると、中心が赤みを帯びてきます。花びらは七から十数枚 あります。
記録では室町時代にその記述があると言われ、普賢菩薩が乗る象の牙のように2本の葉化した雌しべが特徴の「普賢象(ふげんぞう)」。数輪咲き出しました。花びらは20〜50枚 もあります。
最後は小山市郊外を流れる川から名付けられた「思川(おもいがわ)」、先日(財)日本花の会結城農場にでも見かけました。あでやかな桜です。花びらは10枚位の重弁です。
もう1種類の静桜(しずかさくら)はさらに3日ほどして咲き出しました。
静御前に因んで名付けられた桜で、栗橋町縁の桜です。
花弁は白く大きめで旗弁があり13,4枚あります。静御前らしく清楚な中に華やかさがあります。
淡墨桜
昭和50年4月
現在では淡墨桜は日本有数の銘桜として有名ですが、昭和も40年代頃までにはあまり知られていませんでした。宇野先生は昭和42年4月に友人の里見とんさんの那須の別荘でやはり友人の小林秀雄さんと会いました。小林秀雄さんは大の桜好きで、淡墨桜の話をされたのでした。その話から宇野先生の虫が動き出しました。心の中の虫が動きだすとわき目もふらず駆け出すのがいつもの先生でした。当時73歳だった先生はすぐに根尾へ飛んで行きました。この辺の経緯は「生きていく私」にも載っています。
昭和50年4月
根尾に行くタクシーの中で淡墨桜のことを聞いても全く知らず、あちら、こちらを訪ねてやっと淡墨桜にたどり着いたのでした。そして、銘桜の無惨な姿にとても驚き残念に思ったのでした。それからはまさに宇野千代流でした。役場に行きいろいろ調べ、以前にもこのような薄墨桜を再生した前田医師をことを知り、銘桜復活のため様々なことをはじめたのでした。
小説「淡墨桜」に「私のデザインした小紋の染工場である熊谷の横田伊三郎が、まず筆頭で五万円、次は骨董屋の瀬津が三万円、美術批評家の青山二郎が十万円と、・・・寄付金集め容易でした。」とあるように募金もその一つで実際に集め始めました。後になって同業の富田染工の富田さんが「小説に載るのが分かっていたらもっと出しておけば良かった。」と言うような笑い話もありました。実際にはその募金を使うことなく、直訴した手紙が岐阜県知事の目に触れ、県が淡墨桜再生に大きな力を果たしてくれました。
再生の手術が成功し、淡墨桜は見事な花をつけるようになり、周囲は大きな公園として整備されました。ほとんど知る人もなかった淡墨桜が有名になり、花の時期には大勢の観光客が集まるようになりました。鉄道のなかった根尾には樽見鉄道が延長され、先生が投宿して住吉屋さんは釣り宿から大きなホテルになり、淡墨桜は一大観光名所に変貌したのでした。 写真でも小さな囲いの周りには昭和50年には民家が接していたものが、次の写真では住宅は無くなり、広く整備され、しだいに大きな公園になっていく過程が分かります。














